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ジェネレーター習慣入門

もし○○だったら?ジェネレーター習慣入門(1)

「もし○○だったら?」と考えてみることをなんでもいいから日々に取り入れることはジェネレーターの面白がり力のベースをなす「なりきり妄想力」を高める。さらにその時に、表層的言葉変換(かっこつけて言ってますが、単なる語呂合わせ、シャレ)で言葉遊びの脳トレ😁を付け加える。

今朝、朝風呂の湯船の中で、

「あ〜あ、平成も終わりか。なんとなく安倍さんって長州出身だけど松陰とか高杉じゃなくて慶喜のような気がするなあ。2019年は大政奉還みたいなものか……たいせいほうかん……体制ほうかん……たいせいこうかん……体制交換?……おお、大勢交換!……なるほど、これまでのマジョリティが静かに交換され、世の一新の流れがうごめく年か」

などととりとめのないことを思う。

2019年。私は56歳になる。大政奉還は1867年。その時56歳だった人は誰?

さあ、ウィキ先生の出番。ちゃらっと調べると、1811年生まれでパッと目についたのは、

日本人では佐久間象山。そしてアメリカ人では「アンクルトムの小屋」を書いたミセス・ストウ。ヨーロッパでは数学者のガロワがいた。

なるほど。佐久間象山ね。過激思想で若者にも影響与えちゃってなんかこう憧れるし、自分にダブらせたくなってしまうなあ。でも、大政奉還の時にはもう象山は死んでいた。享年53歳。

ということは、大政奉還をもし象山が迎えたらどんな感じ?
決闘しないで生き延びたガロワはどんな感じだろう?

待てよ、ということは今年は慶應3年に当たるから、夏目漱石、豊田佐吉、宮武外骨、南方熊楠、正岡子規、幸田露伴、伊東忠太、目を海外に向ければ、マリー・キュリー、フランク・ロイド・ライト、ライト兄弟の兄、トスカニーニ、大草原の小さな家のローラ・インガルス・ワイルダーにサイ・ヤング賞のサイ・ヤングもいる。

おお、彼らは既存の「体制」を「交換」する原動力になった人たちばかり。

今年生まれる赤ちゃんは、そういう子どもたちなのかも。そしてそんな時代に超変人の象山は、どう生きてゆくのか。それは象山さんも未経験ゾーン。そこは市川力が考えないといけない。

よし今日はそんなことを一日考えてみよう。

ということで電車に乗りました。しばらくこのことは忘れて、仕事のことを考えよう。

あとは家に帰ってから。

ジェネレーターの日々の習慣の一コマでした。

ちなみにみなさんの場合は誰になりますか?ちょこっとウィキってみてください。

偶発コラボレーション ジェネレーター習慣入門(2)

もし、今年が「大政奉還」の1867年だったら、あなたの生まれ年は何年?と考えたら私は1811年で、その年に生まれた人は誰?と調べてみると佐久間象山とストウ夫人とかが見つかった、というところまでが前回。

 

仕事から戻って、FBを開くと、二人の友人がコメントを返してくれていた。

 

一人は文さん。TCSでスタッフをしていた仲間。今は京都で探究堂という探究塾をやっている。今でも定期的に会い、ともに学び合う仲間だ。文さんの生まれ年には、なんと勝海舟がいた。

 

おお、勝海舟か。すげえな、それに海外だとファーブル。ファーブルって江戸時代末期の人だったんだと今さらながらに思う。

 

もう一人の友人はアンジーさん。TCSの原型となる神戸のラーンネットグローバルスクールに関わっていらっしゃったことから出会った方だ。彼女は、島津久光とソロー。おお、森の生活。歩くの大好きなソローか……と思う。

 

こうして偶発的に生まれたコラボレーションにからめて佐久間象山を見直してみる。

 

勝海舟と象山の関係は……再びウィキ先生登場。

 

「江戸に移住して木挽町に『五月塾」を開き、砲術・兵学を教えた。ここに勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら後の俊才が続々と入門している」

 

五月塾ができたのは1851年。象山40歳。TCSができたのは2004年。私は41歳!なんか微妙にかぶるねえ。

 

じゃあこう書きかえてみよう。

 

「杉並区東高円寺に開校した『東京コミュニティスクール』で探究する学びを伝えた。ここに山田洋文ら後の俊才が続々入門している」

 

文さんすごいね。俊才だww

 

「勝海舟の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となったが、傲慢な象山を『氷川清話』の中では、あまり高く評価していない。『あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて』云々とけなしている。だが、象山暗殺の報を聞いたときは『蓋世の英雄』と評価し『この後、吾、また誰にか談ぜむ。国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅。』とその死を悼んでおり、西郷隆盛や山岡鉄舟を『殿』『氏』と付けていたのを、象山だけに『先生』と敬称をつけていた。また自らの号とした、象山揮毫の『海舟書屋』の扁額を掲げ続けたことも事実で、勝の象山に対する評価はひと通りではない」

 

文さんが弟になっちゃうんだ!「軽はずみでちょこちょこした男」ってけなされちゃったけど、「先生」と呼んでくれるわけか。「海舟」って象山に影響された号だったんだ。そのうち文さんに「号」を書いてあげないとな。

 

では、島津久光との関係は……

 

1864年に象山が上洛したとき、島津久光は、象山の識見を知って、ぜひ自藩に招きたいと考えた。そこで象山の説得に当たったのが西郷隆盛だったが、象山は、自分は幕府の命令で上洛し、薩摩に仕える気はないと断わった。しかし、このとき西郷は象山と国事を語り合う機会を持ち、のちに「もし象山にあって、その意見をきいていなかったら、意外の失敗をしたかもしれない」と西郷は語ったと伝えられる。

 

やっぱりアンジーさんは人を見る目があるんだねえww。象山も頑固なやつで、なかなか付き合うのが大変そうだ。まあ人のことを言えないか(笑)。

 

こうして象山と海舟、久光の関係がわかり、さらには西郷とのつながりもわかった。ここまでで10分弱。誰でも十分捻出できるはず。

 

調べるのはここまで。別に佐久間象山のすべてに詳しくなることが目的ではないのだから。

 

私の書き込みに対して反応してくれた人との偶発的コラボレーションでどんな知識を得られるかを遊びたかっただけ。

 

でも、不思議なことに、これだけの情報でも象山の人となりがなんとなく見えてくるではないか。あとは、このまま放っておく。またいつかどこかで別のこととつながるかもしれない。そんな材料としてふわふわ記憶のどこかに浮かんでいればよい。

 

隙間に漂う知識を備えておく。無目的、無意図で、役立つかどうかわからない「雑」知識をコラボレーションによって選び、見つけ、蓄える。ここがスマホから漠然と垂れ流される情報をだらだらと眺めているのと大いに異なる。

 

スマホを使うにしても、こうした偶発的なコラボレーションを面白がるために用いれば、隙間時間で日々楽しみながらジェネレーター習慣をつけることができる。

いつも歩けば「偶」に当たる ジェネレーター習慣入門(3)

せっかく遭「遇」した「偶」である佐久間象山が「雑」として脳の記憶の隙間に漂っていると、わざわざ歩きに行かなくても、日常、仕事の合間に歩くだけで向こうから「偶」がからみついてくる。

午後、都内で打ち合わせが二つ続く。その前に、図書館で調べ物もしたい。そんなスケジュールでも、ちょっとスキマを作って目的地の周囲を小一時間ぶらつくことはできる。

開架式で豊富な蔵書にアクセスできる場として横浜市立中央図書館と東京都中央図書館は最高の場だ。今日は、新逗子から京急に乗って、横浜・日の出町で降りて、横浜市中央図書館に立ち寄ることにする。

調べ物を終えたら余裕時間を利用してちょこっと遊歩。図書館の裏は野毛山公園だ。

街歩きの楽しみの一つは、街にちゃんと埋め込まれている案内・解説板と「偶発的」に出会い、得られる情報だ。

野毛山公園の入り口にももちろん案内図がある。まずはそこで立ち止まりゆるりと眺める。

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すると……

ほらやっぱりぶつかったよ!

佐久間象山の顕彰碑が公園内にあるではないか。

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横浜と佐久間象山はつながってたんだ……

案内板をさらに詳しく見てみると、ペリーから敬礼を受けたただ一人の日本人

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と書いてある。

なるほど、そういうつながりか。

対面している日本人の序列など当然わからないペリーは、象山に一番の威厳を感じとったからこそ敬礼したということだろう。

態度がでかかったというか、偉そうだったというか、眼光も鋭く、ひるまない感じだったというか、そんな象山の姿がこの一文で推測できる。

公園内を歩き、顕彰碑のところへ行ってみる。

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碑文を読むと、横浜開港の先覚者として今の横浜の発展の礎を築いたということで佐久間象山顕彰会が建てたものだとわかった。書は、当時の横浜市長・平沼亮三。昭和29年(1954年)、横浜開港百年を記念して作られた。

「安政元年1854年米国の使節ペリーが来朝のおり、松代藩軍議役として横浜村にいた佐久間象山先生は、当時の新思想家でありまた熱心な開国論者であった。先生は日本が世界の先進国からとり残されることを憂え幕府の要路に対してしばしば欧米諸国との通商交易の必要なことを献策した。またその開港場として横浜が最適地であることを強く主張し幕府の決意を促して、国際港都横浜の今日の発展の緒を作った」

こうしてちょっと余裕時間をつくると自ずとこういう情報が飛び込んでくる。そうそういつもうまくいくの?と思うかもしれないが、うまくいく。

それはなぜか?

答えは簡単。おととい湯船の中で妄想して「佐久間象山」というキーワードと出会っていなければ、公園の隅にある石碑になんか関心を持たない。だからそばを通過して出会っていても気づかない。ところが、「象山」が頭の中に漂っている状態だと、人間の認知はよくできていて、注意して、情報を拾ってしまうのだ。

遭「遇」しているけど拾っていないだけ。
そんなものは関係ないと取り入れていないだけ。

しかし、いつも身の回りに転がっているということだ。

だからこそジェネレーターは虎視眈々としない。あくせくしなくても引き寄せられることを知っているからだ。なりゆき任せでジェネレート=生まれるのをワクワクして待つだけだ。

石碑の脇をふとみると、まだ春はもう少し先なのにツツジがひっそり咲いていた。咲くのが早すぎたら散るのも早い……

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ほら。こうして自ずと象山とつなげて俳句が生まれてしまう。私は「俳」の心とはこういうものだと思っている。

碑(いしぶみ)や季節はずれのつつじ咲く 端求

さて、午後の打ち合わせに向かうとしよう。

なりゆきでなりたつことの積み重ね ジェネレーター習慣入門(4)

もし○○だったらと考えたのが月曜日。そこから火曜日・水曜日・木曜日と、友達とのやりとりや遊歩での発見から「偶発的」にジェネレートするコラボレーションで、どんどん面白い発見が生まれるということを記録してきた。

 

そして迎えた金曜日。野毛山の「ノゲ」って「崖」だったんだという偶発コラボレーションがきっかけで、今、「自由研究」として「隙間」に続けている「市川たんけん」の発見へとつながってしまった。

 

つまり、全然関係なさそうな、日々、たまたま出会った「雑」をきっかけに、自分が意識して追いかけていることへとつながってしまったということ。

 

1月9日の私のFB投稿を改めて見ていただければ、その「市川たんけん」ですら、京都出張の時たまたま「市川神社」と遭遇して降ってきた課題に過ぎない。

 

あれからわずか1ヶ月。毎日真剣に追い続けなくても、とりあえずしばらくは「市川」を追ってみようと「自由研究」を進めると、面白くなってくるよ!とお伝えしたくて、たんけんの途中経過をシェアします。

 

鳥あえず、鳥いれて、鳥逃さず、鳥とめもないことを面白がれ

 

野毛山公園の池で遭遇したアオサギ師匠がそう静かに「自由研究」のコツを伝えてくださいました。

 

好きなことを見つけるんじゃなくて、好きなことにするんだよ

 

それが「好奇心」というもの。これを「なりわい」にできるんだから、子どもたちとともに探究することを担うジェネレーターは幸せな仕事だ😄

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